いまの50代の方は、ご両親が80代になっているかと思います。
今回は当ブログのテーマを離れて、高齢者ドライバーが運転をやめるまでの経緯を実際の経験に基づいてまとめます。
高齢者ドライバーによるアクセル踏み間違いなどのニュースは連日のように流れてきます。
私は父親に、もう10年ほど前から「そろそろ運転をやめてほしい」と説得を続けてきました。
そうしたなか、2019年、池袋でまだ若いお母さんと小さな子どもが犠牲となる事故が起きてしまいました(池袋暴走事故)。
加害者は当時87歳。これを機に、免許を自主返納する高齢者が増えたとか。
しかし、私の父はそうではありませんでした・・・。
本人にやめる気がない以上、家族が頭ごなしに「やめてよ」とか「やめるべき」などと言っても全く効果がなかったりします。
場合によっては「まだまだ平気」「年寄り扱いするな」などと意固地になってしまいます。
このような場合はまず運転をやめない理由を理解するところから始める必要があるかもしれません。
以下はすべて私の父親と、私たち親族の事例です。
高齢者ドライバーが運転をやめない最大の理由は
お墨付きがあるから
免許の更新ができたなら法的に運転してよいということなので、理屈のうえではおかしくありません。
また、長距離の移動が楽だということも大きな理由です。
父が80代になっても運転をやめなかった理由
(※第三者の客観的な解釈です)
1.免許更新の際の検査をクリアしている(公的機関のお墨付きがある)。
車庫入れは時間がかかるが、ぶつけたり擦ったりはしない。
2.運転に支障となる疾患や障害がない。
3.通院先が少し遠くにある。
4.市内のおもな施設を循環するバスがない(あったが廃止になった)。
タクシーは台数が少なく、ほとんど駅前でしか拾えない。
アプリで呼んでも来ない。
5.もともと技術者で精密機械の設計をしていたので、機械的なものをいじるのが好き。
機械いじりにも自信がある。
主治医がいるかかりつけは
患者の都合で変えることができない
たとえば上記の3。
主治医がいる通院先は、遠いからといって他の病院に変えることができません。
(特に母は大規模病院で定期的に検査を受ける必要がある)
実家を処分した際にマンションに引っ越しをしているので、昔から通っている歯医者が少し遠くなったなどということもあります。
これも治療の履歴を考えると、やたらと変えたくないのだと思います。
ドライバー不足で
循環バスやタクシーが使えない
4のタクシーや循環バスがないのは衝撃的です。
どうやら市の財政やタクシー会社の経営の問題ではなく、ドライバー不足によるものらしいです。
しくみがないわけではなく、人材が確保できないのです・・・。
東京のように歩いて数分のところに何でもあるような環境ではありません。
高齢者だけの世帯に車がないと生活が不便だというのは事実です。
運転をやめるまでの流れ
1.運転能力の衰えをうっすら自覚
私の夫が同乗した際、タッチパネルの操作がうまくできないことや、道路標識の見落としなどを指摘され、安全運転ができていないことをうっすら自覚した様子。
2.車を手放した。しかし運転はやめない
「経済的なこともあり車を手放した」と連絡があった。
ほっとしたのも束の間、遠出をするときだけシェアカーを使って運転するようになった。
地域特性か、シェアカーのニーズは低め。
よって同じ車種が借りられることが多いが、たまに違う車種に乗るとパネルの操作などが異なるため、いくらいじってもエアコンの付け方がわからなかったりする。
かえって私の恐れは増した。
3.安全運転支援アラート機能つきの車に限定して運転
父親が自分で安全運転支援アラート機能がついたシェアカーを見つけた。
自分の運転が危ういという自覚はあるのだ。
センターラインに寄っていっているときなど言葉でアナウンスがあるので、自分の感覚のズレを自覚しやすい様子。
百歩譲って、どうしても必要なときだけ乗るのなら、という条件つきで運転を続けてもらう。
※安全運転支援アラート機能
5回以上の急加速・急減速、急ハンドル、ふらつきなど高齢ドライバーが引き起こしやすい運転ミスや、一時停止違反を検知するうえ、2時間以上の長時間運転や事故多発地域、気象警報の情報をドライバーに伝えてくれる。
しかも、アラートは警告音ではなく、言葉で注意を促すので、利用者から好評だという。
朝日新聞より引用
4.実家に帰るとき、私が同乗するのをやめた
法事の際、父が運転する車に同乗した叔父(父の弟)から
「兄貴の運転はかなり危ない。やめるよう説得して」
「家族や身内が一緒に乗ってしまうとやめないよ」
と言われ、私はこれ以降、同乗するのをやめた。
母親にもなるべく同乗しないで説得する側に回るよう私から伝えた。
5.まわりにつられて、ついに運転をやめた
父親の弟や高齢の親族が次々に免許を返納し始めた。
「いつでもどこでもお酒が飲めて楽しい」「清々した」などと父に話してくれる。
運転をやめることは、運転をあきらめることではない、と理解した様子。
これがきっかけで本気で運転をやめることを考え始め、ついに2023年、運転をやめた。
運転をやめることは
運転をあきらめることではない
「運転をやめる=運転をあきらめる」という捉え方をしている場合、逆に運転することに執着してしまうようです。
あきらめるのではなく、単に運転しない生活を選ぶというだけだという考え方をしてもらえるといいと思います。
いきなりやめるのが無理な場合は運転の回数を減らしてもらうなど、段階を踏んで少しずつやめる方向にシフトしていけるといいですね。
運転をやめたら腰を痛めた
・電動機付き自転車で毎日のように出かけるようになり、雨の日でも遠出をする。
その結果、腰を痛めた。
・夫婦とも通院先が少し離れたところにあり、移動がたいへんになった。
今後、セブンイレブンなどの移動販売が拡大すると助かる高齢者がたくさんいると思います。
やはり自分で選ぶ楽しみは大きいでしょうから。
子としてできること
私は離れたところに住んでいるうえ、運転免許もないので、これといったサポートができません。
とりあえず次のようなことを実践しました。
・宅配や通販を勧めても利用したがらないので、お米やトイレットペーパーなど、重たい食品や消耗品は一方的に送ることにした。
「宅配なんて必要ない!」と一蹴する頑さは変わらず。
重たいものだけでも利用すればいいのにねえ。
・今ほど外出ができなくなることが考えられるので、タブレットを買って宅配アプリを入れ、使い方を教えることにした(スマホは字が小さいため、ほとんど電話にしか使っていない)。
・自治体に生活支援サポートのサービスがあり、いざというときは通院の送り迎えなども安価で頼めるという情報とともに、住んでいる自治体の問い合わせ先を教えた。
↑この結果、「腰は大したことない!」と言ってますます自転車で外出するようになってしまった・・・。
傾聴スキルよりもネゴシエーションのスキルを学んだほうがいいかも。
いかがでしたか?
本人が自主的に返納した話はネットによく出ているのですが、家族が説得に成功した事例が見つからなかったので、まとめてみました。
20年ほど前、私の仕事仲間が事故で亡くなりました(鉄道駅で、ホームから落ちた人を助けようとして命を落としました)。
そのときホームから落ちる人がいなければ、その人が亡くなることはなかった。
今もたまに考えてしまいます・・・。
突然の事故で命を奪われた多くの方のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の皆さまの心に寄り添う誰かが近くにいてくれることを願います。
さて、今年の桜は早くももう満開。
今日、浅草吉原の近くでこんな桜を目にしました。
得も言われぬ迫力に思わず写真を撮る人がたくさん。
これだけ多くの支えがなければ立っていられないほどの老木なのかもしれませんが、それでいてこの堂々たる枝ぶり。
老いを感じるどころか、その姿はまるで傾城(けいせい=最高位にいる遊女)のようだなあと。
禿(かむろ)、新造(しんぞう)や大勢のとりまきを引き連れて、三枚歯の高下駄を履いた遊女が大通りを練り歩く。
映画「吉原炎上」(1987年、五社英雄監督)のあのシーンが蘇ってくるようでした。
この世の生の悲喜交交を呑み込んでなお生きる。生き抜いていく。
そんな凄みを感じたのでした。
管理者プロフィール
Kamiyama
ライター/エディター
編集プロダクション勤務を経てフリーライターとして独立。大手新聞社の月刊誌などで医療・健康分野を中心に取材活動を続けた後、現在は文化系法人専属の編集者。また、さまざまな実用書のディレクションにも携わっています。